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  「お茶と私」

 「これなあに?」

私の問いに、生徒たちは、

 「先生、本当に知らないの?」

と大爆笑し、

「これ、茶畑だよ。」

と笑い転げながら答えた。あれは、二七年前の五月だったと思う。関西生まれの私が、縁あって茶どころの男性とその三月に結婚し、四月から西部の女子校で勤務をしていた。コンクリートジャングルの都会で育ち、田んぼと畑の違いもわからなかった。大学と大学院を神戸で過ごし、一年休学してアメリカへも留学した。二五歳で関西の教員採用試験に合格。二年間勤務した。結婚を決意し、茶どころの採用試験を受験。合格し、結婚式の次の日が、学校長面接だった。

「都会のリベラルなところからきた人はいらんのだがね。」

と、校長先生に言われ、面食らった。カルチャーショックだった。都会ではあり得ない言葉だった。それでも勤務が決まったのだから、その校長先生の個性だったともいえる。自宅から、JrJRとバスで西部の学校まで通勤した。都会育ちの私は、ペーパードライバーだった。

 とにかく、「――だっけ」 「――ら?」やイントネーションに疲れ切った。こちらは関西弁ばりばりだった。そして初めての一年生裏山遠足。私は本当に茶畑を全く知らなかった。冒頭の生徒たちとは、それをきっかけに仲良くなった。

 私たち夫婦は宣教師を通して知り合い、キリスト教プロテスタントの信仰を持ち、教会で挙式した。そこには有名な茶匠の社長ご夫妻がおられて、お茶のことをいろいろ教えていただくようになった。西部に多目的のお茶園を作られ、見学もさせていただいた。私はほうじ茶が好きだったのだが、夫にそれはお茶ではないと言われ、緑茶のおいしさに惹かれていった。

 私の実父は柔道家で高校の体育教師であった。抹茶が好きで、家には茶室があり、父はよく茶を点てた。私にも早くからお茶を習わせた。抹茶は大好きだったが、それがどのようにしてどこでできるのかには全く興味関心はなかった。偏った娘だったかもしれない。

 英語の教師という職業柄、日本文化を外国の方に紹介する機会が多い。折り紙や、着物とともにお茶は日本文化を代表する。日本のお茶を本当に理解されていない外国の方があまりにも多い。

 子供二人も成人し、これからは人様のお役に少しでも立つように生きていきたい。最後まで自分の足で歩き、手で食べ、ぴんぴんといき、ころりと死にたい。この地のお茶はそのためにはとても大きな身方だと思っている。飲んでおいしいし、贈って喜ばれ、紹介のし甲斐もある。五十歳を超えてそんな風に思えるようになった。もう茶畑は知っている。トップへ